歴史を取り戻せ!正しい史実はただひとつ・戦後の歪んだ歴史教育を正し、史実を世界に向けて発信しよう!政治家はこぞって歴史を勉強し直せ!

さて歴史を取り戻そうと言うことで、先日はパリ講和会議にて日本の全権団が世界で初めて人種差別撤廃を要綱に盛り込むよう提案をした話を致しました。
元々、これら法案が国連にてしっかりと可決され施行されていれば、その後の大戦は回避出来たかもしれなかった。

しかしこのころの国連とは欧米列強が植民地政策を採っていた為に、まともな国連とはとても言えなかった。
結局は植民地政策を採っていた白人国家の力が絶大で、世界平和に向けた日本の発言は受け入れられなかったのだ。
いや、実際は16票中11表が賛成なのだから可決されていた。
しかしこれを議長国であるアメリカ・ウィルソン大統領が突然のルール変更によって全会一致でなければならないとして強引に却下してしまったのだから、国連とは何の為の国際組織なのか、全く意味がなかった。
つまりこうした欧米列強の強硬な姿勢に対し、止める術はなかったに等しいのだ。


さて今回は反日左翼の連中が『日本は侵略戦争をした』と大々的にアピールするが、それが如何に的外れで歴史的根拠がまるでないかを話してみたいと思う。
そこで今回は満州についてのお話です。

まず、日本がなぜ満州に軍を置くことになったのかだが、これは日露戦争の権益によって関東州(遼東半島)や南満州鉄道を収める事になったのが始まりだ。
ロシアは清国の力が弱まると清や朝鮮を我が物にしようと南下政策を執ります。
清は日清戦争義和団の乱などでその国力は疲弊し、欧米列強の格好のターゲットとなって行きます。
ロシアは1900年の義和団の乱では各国の軍の要請には応えず、この時全満州を制圧してしまいます。

ロシアが他国を制圧する時、いやロシアだけではないですが、何が起こるかと言うと略奪・強姦・搾取・虐殺が当たり前のように起こるわけです。
そしてその現地民は過酷な生活を強いられ奴隷として生きて行く道しか残されないわけです。

満州を制圧したロシアが次に目を付けたのが朝鮮半島
この朝鮮は永い間清の属国となっていて、真の独立国ではありませんでした。
日本はこの朝鮮がロシアの手に落ちれば日本にとって重大な脅威になると言うことで、朝鮮を独立させようと支援をします。
しかし当の朝鮮と言えばあっちに鞍替えこっちに鞍替えの状態で、次第にロシアと日本の指揮権がぶつかり合うようになります。
そうした中で起こったのが日露戦争です。

これに日本が勝利し、満州を収める事になったのですが、日本はロシアが行った植民地政策とは違い、インフラを整備し教育を与え工場を造って産業を興しました。
そうする事で満州はとても住みやすく豊かな土地に成長して行ったのです。
日本は真面目に満州の近代化に努めます。
結果的に日本統治時代では本国である日本以上に近代化が進んだとも言われたくらいです。
しかし日本の関東軍が収める満州の周辺は、戦乱の世が続いていました。
支那にはいくつかの軍閥が出来、各地で馬賊や匪賊といった盗賊が暴れまわります。
そして豊かな満州を自分の物にしようと企み台頭して来たのが張作霖です。

要するに満州は日本の統治のおかげでしっかりと働いて賃金を稼ぐ事が出来て、そして農業も盛んになり食物も豊富にあった。
子供と言えば学校の教育を受けられ人種を差別する事無く生活が出来た。
ロシアや支那での生活では考えられない事が満州で起こっていたのです。
しかもこれは満州国成立前であって、正式な国家とは認められていない土地での出来事です。


馬賊頭目であった張作霖

ですから各地から人々がこの満州を目指して移動しそこに住み着いた。
特に支那人の人口は他の民族を圧倒するようになります。
当時の満州の人は約3000万人でその内支那人は2600万人と約8割以上を支那人が占めた。
そして馬賊出身とは言え、張作霖はこの満州の土地に政権を樹立するようになって行きます。

しかしそこは馬賊出身で強奪を繰り返し来た張作霖であって、この満州で民衆を苦しめる収奪を行います。
なんと今で言う税収のおよそ8割を自己の利益と軍事に費やしてしまいます。
そしてその軍事力を持って満州の民衆を脅し更に収奪をする。
逆らう者は殺し自己の利益のみに走る悪政を敷いたのです。

そして更にソ連との関係を悪化させていきます。
金と実権を握り、好き勝手やって来た張作霖は天狗になったのか、東清鉄道の利権をめぐってソ連と対立。
また、北京のソ連大使館を強制捜査し大量の共産党員を逮捕した。

そしてあろう事か、支那皇帝にまで登りつめようとします。
たかが馬賊あがりの頭目が、満州の民衆を虐げたあげく支那の皇帝まで狙うとは、張作霖の周りに不穏な動きが出て来た事は言うまでもありません。
そんな折に起こったのが張作霖爆殺事件です。


爆殺事件の現場写真

この事件は当初より関東軍の参謀である河本大作の犯行であるとされて来ましたが、旧ソ連が崩壊し旧ソ連の公文書の中から張作霖の爆殺はソ連の陰謀であったことが記されています。
この事についての真意は完全とは言い切れませんが、当初実行犯とされた河本の証言と、事故を調査したいくつもの機関の調査結果とは食い違う所がある事が分かっています。

特に爆破物を仕掛けた場所は、橋脚のそばの線路脇とした河本に対し、事故調査機関の調査結果では河本が仕掛けたとされる場所では、今回の状況にはならないと言う結果が出ています。
写真を見てもらうと一目瞭然なのだが、線路脇に仕掛けたのなら、列車の下部から線路そのものが破壊されていなくてはならないものが、ほぼ状態を保っている。
むしろ爆破による損傷が酷いのは列車内部と上部である事から、爆発物は列車内部に仕掛けられたものであるとしか思えないのです。
そしてこれは当時のイギリスの公文書に記されたものの中には、爆破物に使用された火薬はソ連製であったことが認められています。
更に当時のイギリスは日本に対し『よく調べもせずこれを認めてしまうなど、日本は情報力に弱い。』と、のちに指摘されてもいます。

予測されるのはソ連が日本の実行に見せかけての陰謀であった。
そして河本初めとして関わった人間はソ連諜報機関と繋がりがあった。
そうした可能性は捨てきれないと言う事です。

話を戻します。
張作霖が爆殺された時の満州の民衆の反応ですが、これが諸手を挙げて拍手喝采でした。
それはそうです。
民の税収のおよそ8割を好き勝手に使って、その軍事力で民衆を脅し更に税を搾り取るなど、日本の関東軍が統治していた時では考えられない事だったはずです。

しかしその後、張作霖の息子の張学良がこの満州奉天軍閥政治を敷きます。
張学良は父親の張作霖の巨額の財産を受け継ぎ、外交的には相手を軟化させる政策を執ります。
要するに対外国の干渉を最小限にしようとしたわけです。
しかし民衆にやる事は父親の張作霖と同じ。
民衆の支持は次第に得られなくなっていきます。


柳条湖事件関東軍の警察権行使に過ぎなかった

そうした背景の中で柳条湖事件が勃発します。
柳条湖事件は日本では軍部の暴走と言う形で受け止められているが、これは全くの間違いだ。
この柳条湖事件をきっかけに満州事変へと発展するのだが、この時首謀とされた関東軍満州に1万程度の兵力しかいなかった。
張学良率いる軍閥はおよそ30万の盗賊。
如何に屈強の関東軍と言えど単独でこれと戦うのは無理があると言うものです。

実はこの時満州の民衆が関東軍に協力をしているのです。
それは当然と言える。
日露戦争で合法的に権益を得た日本が満州を統治し、その後近代化に着手し満州を豊かにする政策を行った。
それにより満州の人々は豊かになり平和に暮らせる事が出来た。
しかし張作霖が現れるとその後の張学良の時代まで、虐殺・強盗の嵐の生活を強いられたのだから民衆にも我慢の限界が来たのだろう。

こうして3000万人の民衆の協力を得た関東軍は張学良率いる軍閥満州から追い出します。
つまり民衆の民意を得てこれを遂行した訳だから、関東軍のやったことは警察権の行使に過ぎないのだ。
元々その権利はあったのだから当然である。
そしてやがて満州事変を経て溥儀が皇帝に即位し満州国の立国となる。


さて一通り2つの事件についてざっとお話したが、反日左翼の人間はこうした歴史的事実を歪曲して日本軍の暴走だの侵略だの戦線を拡大しただのと言い、先人の功績を貶めようとする。
客観的事実を拾い上げても日本軍が侵略をし民間人を虐殺したなどと言う事はない。

むしろ日本軍はその地に住む民衆の平和と安全を構築していたのだ。
張作霖爆殺事件にしても、戦後客観的事実が明らかになって来ているし、当時の調査でも明らかに河本大佐の自白と食い違う調査結果が出て来ている。
もちろんこの時にろくな調査もしなかった日本にも責任はあろう。
しかし欧米列強との差別が公然となされていた時代の日本の発言は極めて弱いものだった。
それを考えれば物事を穏便に済まそうとする事は同情の余地はあるが、やはり言うべきところは言わなければならなかった。

そうした時代背景にあって、戦勝国に歴史を歪められその歴史を押し付けられて来たのは仕方ない。
しかしサンフランシスコ講和条約によって主権を回復した後は、失われた歴史をしっかりと取り戻さなければならない。
それは今を生きる我々の役目だ。

信じられない事に保守と言われる政治家の中にも歴史を歪め先人を貶めるような陳腐な歴史認識の輩がいる。
学校で習った歴史がすべてと未だに思っている政治家は、しっかりと勉強し直せ!

政治家は特にこうした歴史認識を史実を持って認識してもらわなければ困る。
結局こうしたしっかりとした史実を認識していれば、支那・朝鮮に対し毅然と反論が出来ると言うもの。

そして事実と違った歴史認識は、命を賭けて国を護った英霊に対し誠に申し訳ないことだ。
我々日本民族は、正しい歴史を取り戻し、日本民族としての誇りを取り戻さなければならないのだ。